昭和51年01月22日 朝の御理解
御理解 第30節
「神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。」
今朝(感動)控えに(感動)控えさせてもろうておる時に「金光大神の心の奥」というこを頂いた。「金光大神の心の奥」という。なにか知らんけれども(感動して息が詰まる)、朝から声を上げて泣きたいような、有り難い心に浸らせて頂いております。「金光大神の心の奥は、どう言う様なものであっただろうか。」と。今日は三人の子供達が、はぁもう三時半には、私の部屋に向かいに出て来てくれました。
またこちらでも光昭が出ておりましたから、まぁ御祈念は若先生があのようにして仕えてくれます。子供達が皆一生懸命信心に励んでおると言う事。もう一人一人の子供達に頭を下げてお礼を言うて回りたいような感じがする。今日私は今日御参拝の皆さんの本当、一人一人に「有り難う御座います。有り難う御座います。」というてお礼を申して歩きたいような気持ちです。
それは今朝からその頂きます、「金光大神の心の奥」と言う事です。本当に「金光大神の心の奥」を少しでも覗かして貰い、分からせてもろうたら、金光大神様でも私は「一生懸命に信心の修行をさせて頂く、氏子一人一人にお礼を言いたい様な、お心がおありになるのだ」というふに思わせて貰います。例えば今日の御理解を頂きまして、「神を信ずる者は多いけれども、神に信じられる氏子が少ない。」
今年の信心はね、神様を信じると言う事は、皆さん色々な角度からおかげを受けられて「成程信心すれば、信心するがとある。神様に向かえば、向かうがおかげが受けられる。神様の働きと言わずにこれをなんと言うか」というほどしに皆さんが実感として、神様を段々と信じる力がおできになってこられた。今年は「愈々神様に信じられる信者氏子としておとりたてを頂きたい。」というのが大払信行によってね、無条件の信心をさせて頂く。そして合楽示顕活動に参画させて頂く。
愈々「和賀心時代を創る」という、愈々神の願いというか悲願というか「その悲願達成のためのお役に使うて頂きたい」と言う様な願いのもとに、今年の信心がこの様にして、ね、寒修行が始まった「今年はどうでもこの寒修行にかけなさい。そしてあんたの願っておる、あれも成就、これもおかげ頂きたい。と言った様な事を一つ願いの焦点として、そしてこの寒修行にかけなさい」というのが、過去の信心でしたよね。
今年私が寒修行が始まる時から「もうしております、今年はそういう自分の小さな願いをかけるのではなくて、もう愈々もって大払信行の尊いこと、素晴らしい事を分からせて頂いて、そのいうならば基本づくり基礎づくり、愈々心を清めていく、愈々信心辛抱の徳が身に付いて来る事の為の修行に、まぁかけてのこの寒修行を頂きたい」というのが、寒修行初めの初日の日に、皆さんに聞いて頂いて事でしたがね。いうならばそういう信心に神様のお心が動かないはずがない。
そういう信心に神様の御信用が伴わないはずがない。そういう私はいうならば高度な信心とでも申しましょうか、「神様が願ってござる。求めてござる。」所に私共の求め心も、そこに焦点を置いての信心なのですから、金光大神の心の奥が分かれば、分かるほど、「どうぞ、信心しておかげおを受てくれよ。」と、その天地の親神様のお心を、お心として金光大神がです、昨日の御理解から頂きますと「此方ばかりが生神ではない。みんなもその通りのおかげが受られる。」
と仰せられる所の信心へ向かって精進をしておるのですから、金光大神のもうそれこそ心の奥にはですそういう信心を願い求めておる信者の一人一人、例えばそういう弟子がたくさん出来るならそれこそこれからの稽古は勿論それは厳しい事でしょう、険しい事でもございましょうけれどもそこに願目を置いての信心に打ち込んで、事実こうやって朝の早い時間に皆さんがその稽古に通うてみえるのですから、稽古にみえるみなさんの一人一人にです「金光大神がお礼を言いたいような思いでおわりになろう。」
と思うたら私もそんな気がするんです。ね。それが「金光大神のお心の奥」なんです。「どうぞ商売繁盛どうぞ病気を治りますように」成程それもおかげです。また頂かなければなりません。そういう信心を基礎としてそして実は「願わずにはおられない、頼まねばおられない。」という信心になるのです。私は一昨日朝のお食事の時に、入れ歯の上下が痛んで、もう固い物が食べられないんです。
それでその後から「どうぞおかげを」お神酒を口にいっぱい頂いて、そしてお願いをさせて頂いておりましたら、昨日の朝からひとつも痛まんのです。願わずにはおれんのです。昨日は夕食の時に家内と久富先生と三人で話したことでしたけれども、この頃の月次祭にたくさん、鰯かなんか一箱、箱で頂いておった。「あれは、一ぺんぎりで出さんじゃったが、あれはどげんしたか」ち言うたら「あぁあなたばっかりはあなた、今二十八人おりますよ。一匹づつ付けたちゃ一箱すぐしまいますよ。」
と言うわけなんです。「いやぁ本当にそうだなぁ。」と私改めて思わせて頂いて、それこそ、ただお礼だけ言うときゃよいのじゃない。矢張り願わずにはおられん。今夜も明日も明後日も、またどうぞ二十八人の者がね、腹ほさんですむような、おかげを願わすにはおられない。おかげを頂いたらお礼を申さずにはおられない。今まではただ真の信心さえしておれば、願わんでも頼まんでもちゃんと神様がおかげを下さる。
まぁそういう信心でありましたけれども、成程神様がおかげを、いわゆる「神様を信ずる」と言う事。「神を信じる氏子は多い」その信じられる信ずる、氏子のほうであった私がです、今度は「信じられる側の方へ立たせて頂かなならん」と思わせて頂いて時にです「今までの信心は、それこそ実意をかいだ信心であったな。」と言う事であります。「もう俺はこれだけ一生懸命しておるから、神様が願わんでも頼まんでも、ちゃんと先回りをしておかげを下さる」というのが、私の信心でした。
しかしこういう信心は、多くのお道の信心をさせて頂く、それも信心がもう、随分稽古が積まれて方でも、この思いが多いのではなかろうかと思うのです。「願わんでも頼まんでも、神様がちゃんとおかげをくださる。」成程おかげは下さるけれども、「これはあまりにもの信心だ」と気付かせて頂いて、それこそ「五穀豊穣の事牛馬にの事至るまで、人間関係人事百般の事。「実意をもって願え」と仰せられる。
あの御教えを改めて頂きなおした時にです、「実意をもって願う」と言う事の素晴らしい事が分かってきた。「実意」とは結局は「横着のない心」と教えて下さる。してみると今までの信心はです「もう神様が下さるもん。もう神様がちゃんと下さる」と、下さりもせんものを下さると、ただ信じておったからおかげは下さるけれどもね、これは願わずにはおられないものしかも実意をもってである。
そこにです「無力である所の人間の、信心の本当の実意の姿というものがあるんだ」と分からせて頂いてきたら、もうそれこそ願わずにはおられないことばっかり、そして願っても願ってもまだ願い足りない事をです、また願わねければおられない。一時間なら一時間「あらこれも」とお願いをする。まぁだ、それでも不行き届けの所ばっかりですから、願い足らん所は又願わして「よろしくお願いします。」
と願わなければおられない。日々例えば私歯の入れ歯の痛みと言う様な、小さい事柄であっても願わずにはおられない。日々ね今まではただ神様二十人になりました。今日からは二十五人になりました。今日は何十人の者がここで会食をいたします。どうぞよろしくお願いします。というお願いをせずに。ただ今日は五十人のなら、五十人の者が頂きます。という報告をしときさえすれば、もう神様がちゃんとお膳立てをして下さる。と言う様な信じ方であった。
所がです今度は「信じられる」という信心に回った時にです、そんな横着な事では、とてもとてもね。矢張り「実意をもって縋らなければおられん、願わねければおられない」と言う事になってくる時に、私は「信じられる信心とは、そういう信心だ」とそこが分かって願う信心だと思わせてもらうのです。今朝方お夢を頂いた。まぁ十畳ぐらいのお広前で神様がお祀りしてある。そこで一杯の人達が御祈念を頂いておる。御祈念が終わると帰る。帰るともう入れ代わりたち代わりして御参拝があっておる所を頂いた。
今まぁいうならばこういう堂々たるお教会で、しかもこのお広前いっぱいにこうして信心の稽古をなさっておられる皆さん。こういう状態から今日私が御心眼に頂くのは、いうならささやかな小さい教会。それでもお参りがいっぱいあっておると言う事。そしてその御祈念をしておられる方達を皆、こうやって見させて頂いたら、玉串案の中へいうならば八足の長い低い、丁度腰掛るのに丁度良いぐらいのに、こういうのに皆が掛けておられての御祈念の様子でありました。
それで私神様にその事を神様に目が覚めて、お願いさせて頂きましたら、いうならば本当にまぁこうして大変な御比例を頂いて、まぁ隆々としてなら繁盛しておる教会の様に見えるけれども、神様の目からご覧になれば、この様にもお粗末なささやかな教会だと言う事である。いうならば「和賀心時代を創る」という程しの願いと祈りをもって、そこに焦点を置いて邁進させて貰う教会にしては、あまりにも貧弱なお教会である。今日私はその事を「どうぞ和賀心時代を創るという程しのお役に使うて頂ける。
堂々たる大きなスロ-ガンのもとにです、願いをひとつにしておりますけれどもです、その願いにふさわしいお教会にお取り立てを頂き、その願いにふさわしい沢山の信者、しかも『神に信じられる』というほどしの御信者さんがたくさん集まられて、そしてうって一丸になってそういう大きな神の願い答えさせて貰える、信心に進ませて頂くような、おかげをまぁ頂かせて下さい。」という願いを今日改めてさせて頂いた。神様の目からご覧になればその様に貧弱なお教会である。
しかも皆が八足に腰を掛けてからの信心であると言う事からです「はぁ合楽の信心は私を初め、みんな腰掛信心だな」と思わせて頂いた。私は皆さんに申します。修行に入ってくる方達に、よその教会からお参りをして「どうでも」というて、ここにおかげを頂かれる方達に申します「私の信心をいうなら踏台にして、信心を進めていこう、高めていこうというのなら良いけれども、合楽の信心を腰掛なら御免ですよと。
私は腰掛にはなりたくない。」と言うておる私共ですけれども、私であり皆さんでありますけれども、神様の目からご覧になれば、まだまだ腰掛信心であると言う事で御座います。いうならば、おかげに腰掛けておる。そのおかげに腰掛けておる、そのおかげが、なら、今、どの程度かというと、今、みなさんが頂いておられる程度のおかげなんです。そのおかげに腰掛けておる。これでは大きな働きはできません。その八足の上には、お三宝が置かれなければならない。
そしてそれにお供えものが盛られなければならない。今、合楽の信心はです、その腰掛信心から、その八足にもっと神様に喜んで頂くもののお供えが出来る、信心に目覚めなければならないと言う事になるのです。今の例えば受けておるおかげというてもです、そのおかげに腰を掛けたんでは、もうその程度からいうなら堂々回りの信心と言った様な事になるのではないでしょうか。もうひとつこれに腰掛けるのではなくて、それにお三宝が置かれる。それにお供えが置かれる。
という信心に進んでいかなくてはならんのじゃないのでしょうか。「金光大神の心の奥」というのは、そういう限りなく前進、限りなく信心を高めていく所のね「もうこれで腰掛けておる」と言った様な信心から立ち上がらせて頂く信心こそ、願うておられるのでありね。ぎりぎりは「神を信ずる」と言う所から「信ずるものを、また神は信ずる」と仰せられるのですから、おかげは頂きます。
信ずる力が愈々つのれば頂きますけれども、「それではあまりにもの信心だ」と気付かせて頂いて、信じられる信心とは愈々ね無条件。愈々お道の信心者、信奉者として当然の事として、神様の前に無条件、真心の一心の信心をさせて貰うね。それを大払信行によって、そういう自分を空しゅうしたというか、無条件の信心のいうならば味わいと言った様なものを分からせて貰うね。
そう言う有り難い心の状態で、今度は無力である自分と言う事が分かれば、分かるほどもう全ての事にです、実意をもって願わずにはおられないとう信心が、一つひとつ成就していく時にです、いわゆる本当の意味においての金光大神の世界に住むほどしのおかげに成って来るのだと思います。昨日三時からの、この修行生の方達の昨日の朝の御理解の研修を皆さんさせて頂いて、みんなの発表を聞かせてもらいます。
で最後に久富先生に一言「あんたは、別に書いたりしとらんから、まぁ今朝の御理解を頂いて、まぁひと口に言うたら、どうい事を頂かれたか。」と。そしたら久富先生がこういうふうな事を言われました「みんなは神様への活力素活力。神様が生き生きとしてみえられるおかげを頂いて下さる事の為にみなさんが、一生懸命信心修行をなさっておられる、大払信行などに打ち込んでおられるけれども、私は違います私は親先生が、愈々活力を得て下さる事の為の信心修行をさせて貰っとる。」と、
それこそみんながそれこそ、それこそ大笑いに笑いましたけれども、笑いながら本当私は、昨日みなさんに聞いていただいたことを思い出させてもろうて、「私はどうしてこんなに有り難いのだろう。私はどこを改まったならよいだろうか」と言うほどしに思っておったけれども、久富先生あたりのように「本当に親先生が活力を得て下さる。もうそのためにもういうならば足をもませて頂こう、いうなら晩酌の相手もさせて頂こう。お風呂も背中も流させて頂こう。
親先生が少しでも楽になられるように、活力が出てこられる事の為に真心を親先生に捧げよう」というのが確かに先生の信心です。そういう意味においてですなら合楽では沢山の方が親先生という、いうなら「親先生のご健康を」と言った様な、お届けが沢山あると言う事に私は、皆が笑いよる中に、それをフッと気付かせて頂いて「いやぁ本当に自分の信心で、こんなに有り難くなっとると思いよったけれども。沢山の信者さん方が、私の事をこの様にして。
私の活力を愈々増して下さる事の為の祈りがあっておるからこそ、私はこんなに有り難いんだ。」と言う事を昨日、本当に気付きました。改めてだからそういう意味においてでもです、今日は本当に皆さんの一人一人にね、お礼を言うて参りたい程しの心の状態であります。それは「金光大神のお心の奥」が分かれば、分かるほどそりゃ私共がね、分かると言う事はできんに致しましても確かに「天地金乃神様の氏子、信心しておかげを受けてくれよ。」と仰せられる、そのお心の取次いで下さる。
そしてここまでは皆んなもおかげが頂けるぞ。」という一つの手本を教祖様が示しておって下さる。そして「ここん所を目指せ、こういう有り難い心も開けてくる。こういうおかげも受けられるぞ。」とお示し下さってある。そのお示し下さってある信心に、お互いが向きを変えて、この様な信心の稽古が出来ておると言う事だけでも、教祖様がお喜び下さらない筈がない。いうなら教祖様の心の奥を悟らしてもろうて、この様に信心の稽古がでけておると言う事になるのです。けれどもまた反省に反省をさせて頂きますと。
いかにもならこの寒修行かける。それは愈々信心の基礎づくり。「本当の意味においての無条件の信心とは、このようにも有り難いものだ」という基礎を創る事の為に精進しておる私共でありますけれども、「まだまだ、実意をかいだ所がいっぱいであり、同時にまぁだ神様の目からご覧になれば腰掛信心だ」というふうに悟らして頂いて、愈々本気でのいわゆる「生神への向かっての信心」というか、愈々神様に信じられる信心にお育て頂かなならんと言う事でございます。
どうぞ。